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2024.02.02
陸上競技

【陸上競技部】強豪校から専大へ 2度の箱根出走 水谷勇登の陸上人生

福井県屈指の強豪校から専大へ―。箱根駅伝予選会では1年次から3年連続で突破に貢献する走りを見せ、本戦にも2度出走した水谷勇登(経営4・敦賀気比)。しかし、実際はケガとの葛藤が続き、決して平坦な道のりではなかった。

▲関東インカレ5000mを走る水谷



〇中学までは野球部 陸上を始めたきっかけ

 水谷が陸上と出会ったのは、中学2年生の時。当時野球部に所属していたが、市の駅伝大会に召集されたことがきっかけだった。翌年も駅伝チームのメンバーとして召集され、県駅伝で区間賞を獲得。この走りが高校の監督の目に留まり敦賀気比高校へ陸上で進学することになった。しかし、入学直後は大きな成績を残したわけではなく、タイムも人並みで特段注目を浴びるような選手ではなかった。


〇転機は高校3年生のインターハイ路線

 水谷の陸上人生が大きく動き出したのは、高3の春。県総体の1500mで優勝し、北信越高校総体へと駒を進めるとここでも3位表彰台を獲得。インターハイへの出場権をもぎ取り、全国への道を開いた。

 高校2年の段階では、陸上での進学一本に決めきれず「3年の総体までは競技を続けよう」と考えていた中、最高の結果をつかみ取った。インターハイ出場決定という看板を引っ提げて、監督とともに専修大学へ進学を相談。ここで陸上での大学進学が決まった。

 夏のインハイ後は駅伝でも活躍した。11月の県駅伝では、3区(8.1075キロ)を走り区間2位。チームは水谷のほか、現青山学院の田中悠登選手や、山本雷我選手(国士舘大)、斎藤将也選手(城西大)などの強力な布陣により初の県駅伝優勝を成し遂げる。福井県は長らく美方高と鯖江高の二強が続いていたが、その牙城を崩した。その後、都大路では2区(3キロ)を走りチーム最高位となる区間11位で京都の地を駆け抜けた。


〇「自分が入ってから強くしてやろう」 思惑通りの大学1年目

 当時6年間箱根路から遠ざかっていた専大に進学した水谷だったが、プラス思考だった。「高校も(入部したときは)そんなに強くなかったので、自分が強くしてやろうという思いはありました」。1年目はまさにこの言葉通りの躍進だった。チームは10月の予選会を10位で突破し、7年ぶりの本戦出場が決定。水谷も予選会メンバーとしてチーム内10番手、64分30秒とその突破に貢献した。高校までは1500mや3000mと、比較的短い距離を主として取り組んでおり長い距離への苦手意識があったが、大学に入り30キロ走など明確に練習量が増えたことでその点は克服された。予選会が自身にとって大学初のレースでありながらも、夏合宿での積み重ねには手ごたえを感じており、納得の結果だった。

 本戦では1年生ながら8区に出走。メンバー選考の練習では外した部分もあったがチーム事情も重なり、出走が決まった。本戦を走り、「楽しいっていうのはあるんですけど、8区は遊行寺の坂が本当にキツい。ラスト5キロは地獄のレースでした」とほろ苦い箱根デビューとなったが、憧れの舞台へ手が届いた1年だった。

▲1年目から箱根駅伝出場を果たした(陸上競技部提供)


〇翌年も予選会突破、本戦出場 しかし、「危なかった」

 2年目も予選会に出走し、チーム内3番手。2年連続の突破に大きく貢献した。本戦では4区に出走し、区間17位と2度目の箱根駅伝出場を果たしたが、決して順調な年ではなかった。前半シーズンはケガでレースに出場せず、復帰したのは6月頃。夏合宿は1か月ほど走りこんだものの、9月頭に疲労骨折をした。再び走り出したのは、予選会の3週間前。予選会はチーム内3番手だったが、「結構心配でした。前日とかも寝れなくて、寝る前に朝練しました(笑)」。心配のあまり寝ることができなかった水谷は、夜中に走ってから眠りについた。「自分が一番心配でした。ケガもあって自信持って練習できていなかったので、走れるかなという不安で寝れずに」。

 予選会を何とか走り切った水谷だったが、本戦も「結構危なかった」と振り返る。9月のケガの影響もあり走れない時期も続く中、12月のメンバー選考練習では大きく外した。しかし、本戦まで2~3週間で調子が上がり、「これならいけるだろう」と監督に背中を押され、再び箱根路のスタートラインに立った。結果は4区で区間18位。「練習量的には妥当かなと思いますけど、悔しさもありますね」と最高のパフォーマンスには届かなかった。

▲予選会メンバーの集合写真(陸上競技部提供)


〇3年目もケガとの葛藤 「精神的にもきつかった」

 3年目も前年と同じく前半シーズンはケガに悩まされた。故障から復帰し、ようやく走り出した矢先、8月末にも再びケガをし予選会に駆け込みで間に合わせた。予選会ではチーム内5番手と、再びチームの力となった。しかし、実際は精神的にかなり追い込まれていた。「ギリギリで調子を上げることが多くて、精神的にもギリギリでした。走れるかどうか不安で不安で。3年目も前日寝れなくて、朝練しました」と追い込まれた状況下の中、経験で走り切った3回目の予選会だった。本戦への道のりではついに体がもたず、ケガで出走メンバーから外れた。

 奮起したかった最終年も走りこむことができた時期が少なかった。唯一、練習ができた春先では関東インカレ 5000mに出場したが、調子自体は上がらず予選敗退。これが水谷の大学陸上最後のレースだった。

▲最後の大舞台となった4年目の関東インカレ


〇楽しかった陸上人生

「陸上人生楽しかったですね。高校、大学とチームメイトに恵まれて、仲良く過ごせて、最後本戦出れなかったのは悔しかったですけど、楽しかったですね」。度重なるケガとの格闘だったが、水谷の陸上人生は仲間に恵まれていた。

▲4年目の箱根出場は叶わなかったが、12月に行われた川崎国際EKIDENに出場し区間賞を取った

▲同期の仲間と共に優勝をつかみ取り大学陸上に幕を閉じた


文=相川直輝(文4)

写真=相川、河上明来海(文3)、陸上競技部提供